読書日記−中国化する日本

またまた読め!とのお達しに従いまして読んでみました。正月つぶれたよ。。。
 
中国化する日本−日中「文明の衝突」一千年史 
著者:與那覇潤
文藝春秋刊
 
本書のタイトルをわかり易く言い換えると、『グローバル化する日本』です。
 
内容は、1章から2章にかけては中国化と再江戸時代化の定義。
 
宋時代(960年 – 1279年)の中国では出自にかかわらず科挙に合格すれば高級官僚になれた。つまり実力本位で出世できるという競争社会であった。また身分制が無く好きな職に就け、商売をするにも規制らしいものは無かった。これは現代のグローバル化を世界で最初に実現したもので、以来中国は現代まで一貫してこのような自由な社会であった。これをグローバル化ならぬ中国化と呼ぶ。
 
一方、日本は何度か中国化勢力が出ては消えを繰り返し最終的には江戸時代で身分が固定化され、規制に縛られた封建社会になってしまった。居住地が制限され、職が制限され、家庭においては長男以外は邪魔者として扱われる。家と職を固定化して世襲化し、ここに福祉の役割を果たさせる。これを再江戸時代化と呼ぶ。
 
3章から4章は江戸という時代がどんなにひどい時代だったかを書き、5章から7章は明治維新から終戦まで、8章は戦後昭和期、9章は平成期、10章と”おわりに”は現在からこれからについて。それぞれの時代の日本の中国化と再江戸時代化の負の側面が書かれています。
 
感想としては、残念な本、です。
 
著者は事あるごとに、「専門家のあいだではもう常識」「新たな定説になりつつある」といって高校レベルの歴史の教科書には間違いが多く、これが大学レベルの日本史なのだというのだけれど、参考文献がどれも新しかったり、研究者が少ない分野であったりでにわかには信じがたい。学者の一説ではないのかな。更に問題なのは、他人の本を私の色眼鏡で見て都合の良いところをコピペして書きました。文句は種本の著者へどうぞ、というようなその姿勢です。
 
それはそうとして、では内容はどうかというと、宋を理想的に描きすぎ。江戸を悲惨に描きすぎ。どちらにしても中国化、再江戸時代化に都合の悪いことは書かない。そもそも比較することが苦手なようで、「正史」と「演義(小説やドラマ)」の違いや「全体」と「要素」、今風に言えば「マクロ」と「ミクロ」の違いが分かってないのではないかと思われる記述が多い。論理が一貫しない、居もしない仮想敵を仕立て上げ、それを叩くことで自説を証明するという子供だましのような記述も多い。
 
例えば、最初にも書いた科挙。誰でも受験できたかもしれないが、本が買えて勉強時間が確保できる富裕層が有利なのは当たり前。身分制が無いというが、士大夫という支配層があることや地主・小作農にも階層があり、事実上身分が固定化されている。刑罰に関しても身分による差別があった。農民は江戸時代の百姓と同じく搾取の対象になっている。唐以前の古い時代より男女差別が激しい。兵士は顔に刺青をされるのでひと目で分かる。なんてことは書かない。これだけで努力して勝ち組に成れるような自由な社会ではないことがわかる。
 
城の話をする場合、ヨーロッパの城は個人所有だが日本の城は公共建築で、戦の際には避難民を収容するようになっていると。つまり日本の城は公共事業とセーフティーネットのような福祉政策のために存在するのだから非常に社会主義的だといいたい。すると宋時代の城の話を書けないから書かない。ちなみに宋時代に築かれた首都開封城は約7km四方の街を城壁で丸ごと保護しています。これが公共事業でないわけはないし、住民保護の福祉政策でないわけがない。その後、明の頃には万里の長城が築かれるが、これも書かない。これで自己責任だけを問われるだけの社会でもないことが分かってしまう。
 
戦国時代なら織田信長、幕末なら西郷隆盛や坂本龍馬が人気なのが理解できないらしい。これは小説やドラマの影響なんだから歴史とは無関係。そのくせ用心棒、荒野の用心棒、椿三十郎、風の谷のナウシカやらガンダムなんかに歴史的なものを読み取るのだそうだ。
 
100年後の学者が、先日行われた総選挙での共産党候補の演説と聴衆の拍手喝采を見て、平成24年頃の日本人は国家の共産化を望んでいた。なんて結論を出したら笑い話でしょう。一つの出来事で国全体を評価するのは慎重にすべきです。
 
民権派演説会で弁士が「封建政治に戻す」と演説したら聴衆が拍手喝采。これを「江戸時代に戻したい」のだと著者は解釈するが、どうして識字率の低い、リテラシーの無い明治の民衆が、「封建政治」を正しく理解したと考えるのか。これに対し現代の有権者が拍手喝采した小泉のいう「構造改革」を「何が改革なのかも分かっていない」と見るのは都合は良いだろうけど矛盾している。明治の民衆も当然「何が封建政治なのかも分かっていない」とすべきです。
 
こうしてみると中国化も再江戸時代化も対立するほど違うものでもない。せいぜい日中韓に朱子学を垂らしてみたら三者三様の化学反応が出た、ぐらいですよ。著者の試みは空振りだと思います。
 
さらに付け加えると、「内地移住者」と「外国人」は違うものだし、「納付負担急増による孫捨て都市の復活」か、「制度崩壊と給付停止による姥捨て伝説の現実化」か、その両方、なんていうのもずれてるし、「日本の植民地経営が赤字か黒字かが植民地責任の有無を問う最大の論点」なんていうのもずれまくり。
 
ただ、「動機さえ良ければ結果は考えない」という陽明学の影響と「合理的戦略よりも情動的倫理感情に突き動かされた群衆行動が放つ熱気と危うさ」という日本人の気質を中心に中国と対比して書けば面白い本になったのになぁと思います。
 

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